報徳仕法雛形

報徳仕法とは

 

国家の運営、予算配分、企業の経営、投資の判断、また個人の生活設計や貯蓄に至るまで財務会計が重要なのは言うまでもありません。しかしながら、国家は多くの債務をかかえ、企業の多くは赤字経営であり、個人では個人破産が多く発生しております。日本が成長期にあり、正しい財務知識を持ち、健全な行動をしていければ改善がなされるかもしれませんが、現段階ではその可能性は低いと思います。

正しい財務会計のあり方を伝えたいと思ったところ、二宮尊徳の報徳仕法を通して説明するのが良いと思いました。二宮尊徳とは、本名を二宮金次郎といい、後に小田原藩主大久保忠真に尊徳の名を賜ります。江戸時代後期の経世家、農政家、思想家です。現代でいうと経営コンサルタントになります。その二宮尊徳が小田原藩や藩外の各藩、幕府御領地に対して行った農政改革を報徳仕法をいいます。報徳仕法は、単なる農政改革ではなく、二宮尊徳の思想や独自の方法が含まれております。数多くの仕法を行いましたが、藩の規模に対するもの、村の規模に対するもの、家の規模に対するものに分けられますが、ここでは各々に共通したエッセンスをご紹介していきます。エッセンスといっても報徳仕法の重要なところが含まれているので、企業経営や個人の貯蓄に至るまで多くの参考になる点が含まれております。また、報徳仕法は報徳思想と密接不可分ですが今回は報徳仕法に絞り財務に関連したところを中心にご紹介します。

 

二宮尊徳のマニュアル

 

二宮尊徳は自身の報徳思想と具体的な農制改革を報徳仕法として確立しました。仕法は各村に合わせて執り行っていましたが、共通のものも多くその考え方行い方をマニュアルにしたものが報徳仕法雛形です。

マニュアルといっても現代のようにアルバイトでもわかる手順書というものでなく、二宮尊徳の代わりに仕法を執り行う者のためのや幕府に対して二宮の仕法はしっかりと考えて実施しているという矜持のような気持ちも入っているかもしれません。

報徳仕法雛形はいくつかありますが、最大のものは日光神領の仕法の時にまとめられた日興仕法雛形でしょう。八十四冊のなので全てを紹介することはできませんが、エッセンスをお伝えしたいと思います。

 

報徳仕法の特徴

 

仕法は農政改革であり、飢饉や長年の重税により、農民は惰性して働かなくなり、あるいは村から逃げ、荒地が多くなり、それによって取れ高が減少し、農民や武士が困窮することからの改善です。江戸時代末期の状況ですが、現代にも当てはまります。現在の日本も震災やコロナ禍の疫病を罹災し、多くの復興や対策のための財政投入を行ったため債務はさらに増え将来もっと重税に苦しめられることが必至です。少子高齢化し、働き手は少なくなり、国の負債を減少させる手も見えていません。国民も、貯蓄率も下がり、非正規雇用者の増加から収入が減り、将来貰える年金も受給開始期間は遅くなり、その額も実質少なくなるでしょう。

もちろん、単純な比較や参考にできない部分もあります。江戸時代と現代とでは、封建制度と民主主義、資本主義との違いがありますし、科学の進歩も考慮に入れなければなりませんし、宗教や思想に対する考え方も異なりますし、道徳的観念もかなり違っています。しかし、そういった違いを差し引いても報徳仕法から得られるものは大きいのです。

二宮尊徳の生い立ちなどは提供技術の論語マネジメントで少し説明をしておりますので参考にしてください。

 

積小為大が成功への道

 

二宮尊徳は親の破産などが原因で幼い時に伯父に預けられ、夜使用していた行燈の油の使用を止められて、そこから自分で菜種の苗を調達し、川の土手に植え七升の油をとり、それを行燈の油に変え夜学を続けました。また、田植えの捨て苗を拾い、水たまりに植え増やし、その収穫から田を広げ一俵の米を採ることができました。買い増した田んぼを小作に貸し出し、自分は住み込みで稼ぎ、24歳で約1.4ヘクタールに増やし、31歳で3.8ヘクタールまで広げました。この面積の保有は村で数人しかいません。これは元々親が持っていた田よりも多く増やすことができたのです。

このことから、尊徳は小さなことを積み重ねていくことで大きな目標にたどり着くことを実践し体験したのです。千里の道も一歩からの諺にあるように、小さなことから始める重要性を掴んだのです。

 

 

入るを計って出を制す

 

尊徳は、二宮家の復興を成功させたことが評判になり、小田原藩から重役服部家の財政再建を依頼されます。服部家は俸禄以上に支出を重ね多くの負債がありました。そのため、奉公人への給金の支払いも滞っていました。奉公人は尊徳に金を借ります。尊徳は、これまで自身が実践してきた倹約の方法を伝えます。奉公人には、夜なべに草鞋づくりすることを勧めます。そして家事をするものへは、薪の節約する方法を教え、鍋の炭を削ることも教え、節約した分を尊徳が買い取り、自分のものにすることができ、少なくなった給金や借り入れの返済に当てることができました。当時、借り入れの利子は二割ぐらいの高金利です。尊徳は低利で貸し付け、高い利息の借り入れを借り換えさせました。そうすることで、奉公人たちは早期に完済することができるようになったのです。これが、勤勉に倹約することです。

今度は、服部家本体の財政再建に着手しました。先ずは、これまで支出していた内容を改めてもらい俸禄の範囲で生活してもらうようにし、それまでの借り入れを小田原藩から低利の融資を願い出て、奉公人と同じように借り換えを行いました。これが、自分の得た範囲内で生活することです。

節約して余ったお金は、変事のために備えたり、他の困ってる人に低利で貸し与えたりすることで、皆が良くなるお金の回し方を考えるようになったのです。これが、余ったお金の使い方です。

 

最初の仕法

 

服部家で成果を出した尊徳に対し小田原藩は小田原藩主の縁戚の宇津家の復興を要請します。宇津家の下野国桜町領は現在の栃木県にあります。宇津家は、公称四千石なのに対し、実際千五百石しかありません。長年の思い年貢の取り立てのために、農民は疲弊し、場所によっては一揆を起こすのですが一時のことで結局は夜逃げをしてしまい、残された田畑は荒地となり、石高が落ちていくのです。特に桜領などの江戸に近い領地は夜逃げも多く、なぜなら離農しても江戸で働くことができました。江戸は、武士が多く働かない武士は働き手の町民を求めていました。また、残った村民も博打や酒にうつつを抜かして働くことを怠けていました。報徳外記にあるように。「衰村の民というのは、必ず本業を怠り、末作に走り、遊情に甘んじ、酒や賭博を事とし、そうして腹黒く悪賢い者が名主となる。」

したがって、当時の桜領の年貢は、四公六民と分けられていましたので過去にさかのぼって調査し、宇津家への年貢は六百石としその中でやりくりしてもらうことに決めました。尊徳は服部家で経験した自分の得た範囲で生活すること、これを分度といいました。そして、分度を行って様々な改善を行い増収した分外は村のために使うことを領主に確認し、桜町の仕法を始めました。服部家で経験した余ったお金の使い方をもとに分度以上の収入を推譲といい、自分で貯めることを自譲といい、他の人に与えたり貸すことを他譲といいました。

尊徳は、桜町に来るために自分の財産全てを換金しその基金で、村を回村し、孝悌農力の者がいれば表彰し、農具などを褒美として渡しました。それによって、意欲の低いものを感化させようとするのです。また、無利息金貸付も始めます。通常年二割の利子なので、それを無利息で貸し付け、例えば五両借入れば、毎年一両返済させ五年で返済させ、六年目一両を冥加金ということで推譲させました。服部家では高利から低利に借り換えていたので高利から無利子にすることで完済できるようにしました。単に個人に貸す班、組で連帯責任をとっておりました。これを報徳金と名付けました。これも、服部家で経験した勤勉に倹約することがもとになっています。また、尊徳の身銭を使うことで利益でやっているのではない行動で伝えるのです。

先ほど述べたように、農民の一部は夜逃げし働き手が足りません。越後や加賀から入植者を募り荒地開墾を始めました。自分の生まれた村を捨てて来た入植者は強い覚悟があるので成果が出しやすく、さらに表彰するのでさらに精進しました。なぜ越後や加賀なのか。当時は自国の農民は大切な資源ですので、他の地域からの勧誘はご法度です。しかし、これらの地域では一向宗の信者が多く、一向宗は堕胎や間引きを禁止していたので働き手はあまり働き手として求めてもそれらの藩とのいさかいは起きなかったという見方もあります。

 

青木村仕法

 

こうして桜町領の仕法で成果を上げる近隣の農村から尊徳の仕法の噂を聞き、仕法を依頼してきます。その一つが青木村です。常陸国青木村は現在茨城県にあり、旗本川副勝三郎の領地です。最初にやってきた名主の勘右衛門の要請は断りましたが、熱心なので少しづつ自分たちでできることを教え様子を見ました。青木村の仕法を通して尊徳は仕法の方法を確立していくのです。

 

分度の行い方

 

二宮家の復興、服部家の財政再建によって尊徳の仕法にもととなる思想や方法論が固まってきます。先ずは、勤勉に自分の行うことを命分を思い誠実に積小為大を実践していきます。これを一言で「」といいます。そして、分度を決めてその範囲の中で生活したり活動する。計画的にそれを実行していきます。報徳外記の分度第二上では、「分を守るのに道がある。度を立てることである。度を立てるのに道がある。節制することである。凡そ国用を制するには、一年の歳入を四分にして、その三を用い、その一を余して貯蓄とする。その三を用いるのに道がある。十二に均等して一か月の用度とし、それを亦三十二分かって一日の用度とす。こうして節制した所は天禄の度数であり、決して易えるべからざるものであり、これまた天地自然の命分である。」と細かく設定していきます。こうして工夫して節約することを「」といいます。そして「」は、勤、倹によって生み出した余剰を自分の将来のために残すことを自譲といい、他の人に活用してもらうことを他譲といいました。

 

税の正し方

 

分度が建てられても税が正しくあらねばなりません。当時の年貢の徴収のしかたは一俵が四斗通常ですが、計量の升を「もう一杯、もう一杯」と四斗三升くらい取られました。また升も小田原藩で十八種類もあったようです。尊徳は藩に願い出て升を四斗一升を標準にしました。

徴税だけではなく税率も正しくなければなりません。

 

外記興復第七中に、「国家の安危は下民の栄枯にあり、下民の栄枯は租税の軽重にある。租税が軽ければ民は栄え、民が栄えれば国家は安泰である。租税が重ければ民は枯れ、民が軽ければっ国家は危うい。税制史をみれば、我王朝の時代は、二十分の一を取り、シナの夏・殷・周の時代は九分の一を取っていた。後世は暴君汚吏が代わる代わる出て、重税搾取と務めとし、或いは四公六民に及び重税も極度に達した。」とあります。

税を正すためにはどのようにすれば良いのでしょうか。

 

同じく「重税搾取により利益を加えた盛時に五千石を増したとすれば、荒地を生じて税収を欠いた炊事になれば五千石を減ず。外に増すものは必ず内に減ず。なぜならば税法が中を失うことによって盛衰増減を生じるからである。それゆえにその衰退を復興するには、よろしく盛時・衰時の税法を精密に考究し終局のあり方をその初めに設定しておくべきである。」

 

しかし、復興してからまた重税を課し衰時に戻ってしまうのなら復興しない方がよいのではないかという疑問が出てきます。それに対して、

 

同じく「衰退を復興しようとする者は、必ず先ず国家の分度と群村の税法とを制定し、万世不易の規則を立てるのである。これが所謂「終わりを初めに尽くす」ということである。思うに分度を制定し、税法を定めて、中庸を得なければ法とするに足りない。」

 

こうして分度が確立して税が正されると、復興に入ることができます。

 

復興の進め方

 

報徳外記の興復第八には、「分度が立ち税法が定まって後、興復の実施に従事する。その実施には順序がある。先ずは領内の一村から始めるのである。一村行うのに道がある。善を賞する事、困窮者を恵み助ける事、地力を尽くす事、教化を布く事、貯蓄を積む事である。」とあります。

以上が復興の基本的な順序と考え方です。実際に行われた各仕法には、独自の事情があり、そのために方法が違うのは当然ですので、ここでは標準的でどの仕法にも当てはめることができることが、特に報徳外記に記されているのだと思います。

 

最後に

 

今回は、報徳仕法をご紹介させていただきました。私淑しております二宮尊徳の考えなので述べて作らず信じて先達に従うの心でまとめさせていただきました。

しかし、現在に合わせて実行するには留意することがあると思いますのでまた応用方法でご紹介していきたいと思います。

 

引用:訳注 報徳外記 堀井純二編著、現代語新訳書、二宮翁夜話 茂呂戸志夫