論語マネジメント論による人の指導育成

修身

人の改善とは人の指導育成になります。マネジメントにおいてパフォーマンスを出し続けるためには現状より更なる次のステージに上がっていかなくてはなりません。
ATOOSでは指導育成の考え方は、基本的に孔子の考え方と共通しています。つまり、先ずは自らの修身に努め、同じ方向を向いた師に教えを請いと友と研鑽し君子を目指していくのです。ビジネスにおいても、自ら学び行動し、上司や先輩にアドバイスを受け、よきライバルと競いあい、目標を目指します。
人生は早く目標を立てることが重要です。知識のつけ方は、広く学んで心に刻み自分が気づいていないことを質問し、それを行うようにすることです。質問するというのは若い人、でも後輩にでもへりくだって質問するということです。恥じてはいけません。
師は必ずしも良く教えることができる人ばかりではありません。教えることができない人や行いが悪い人でも反面教師になることができます。出会った人だけではなく、一歩進めていえば歴史書の中に出てくる良い人はもとより、悪い人だって参考にして自分に同じ落ち度がないかというように見れば皆自分のためになります。
周りに立派な人がいればよい影響を受けるでしょうし、善良な人を友にしなくてはいけません。もし、師と友が仲たがいしても、友にはそれを諫め忠告したほうが良いでしょう。これらのことがきちんとできていたかを日々反省したほうが良いでしょう。

志学而立不惑知名耳順従心為政二4
先生がいわれた、「私は十五歳で学問に志し、三十になって独立した立場を持ち、四十になってあれこれと迷わず、五十になって天命をわきまえ、六十になって人のことばがすなおに聞かれ、七十になると思うままにふるまってそれで道をはずれないようになった」

“孔子はなかなかの活動家で、寸時も休息もせず努力し修養せられたゆえ、ほとんど十年毎に思想の状態が変化し、七十歳になられた頃には、心のままに行動しても、それがちゃんと人の履むべき道に合致し、決して規矩を超えることのなかったものと思われる。余のごとき菲徳の者はそうは参らぬ。すでに八十四歳にあい成った今日でも、もし心の欲するままに行うときは、たいてい規矩を飛び越えて乱行となるであろう。幸に今日まで余が規矩を超えず、濫妄に陥らずに済んできたのは、一に克己の賜である。”

自省内省里仁四17
先生がいわれた、「すぐれた人を見れば同じようになろうと思い、つまらない人を見たときには吾と我が心に反省することだ」

“蓋し賢人を見れば、己もその賢人のごとく徳を修めて、これと同等の人とならんことを思うて奮励し、不賢人を見てはもし己にもその不賢人ごとき短所あらんかと自ら省察すべし。かくのごとくすれば、世上の賢人はさらなり、不賢人もみな己のために益とならざるはなし。
なお一歩進めていえば、古書を読み古人の賢不賢を見るも、またみな己の益とならざるはなし。いたずらに人の賢を羨みて自ら修めず、人の不賢を侮りて自ら省みざるは不用意千万のことなり。”

不恥下問公冶長第五15
子貢がおたずねした、「孔文子は、どうして文という[おくり名]のでしょうか。」先生は云われた、「利発な上に学問好きで、目下の者に問うことも恥じなかった。だから文と云うのだよ」

″下問に恥じずとは、平たくいえば、己の知らぬことは誰にでも尋ねるという義に外ならず。かかることはなんでもないようであるが、さて虚心坦懐に、知らざるを知らずとして、官位または社会上の地位の低い人にも下って物を聞くということは、実際容易にできるものではない。
大抵の人は、知らざるを知らずとせずして知ったふりをするものである。少なくとも知らざるを知らずとして教を他人に請えば、これがために自分の貫目が下がるかのごとくに思うものである。下問を恥じぬ境界になるのは、よほど豪い人でなければできぬことである。″

公冶長五3
先生は子賎(しせん)のことをこういわれた、「君子だね、こうした人物は、魯に君子がいなかったら、この人もどこからその徳を得られたろう」

“周囲に君子者多ければ、その感化によりて、かくのごとき徳を成就すべし。観感の功の大いなるを知るべし。青年諸君の友を求め範をとる、よろしく賢者を選ぶべし。”

三人行けば必ずわが師あり述而第七21
先生が言われた、「私は三人で行動したら、きっとそこに自分の師を見つける。善い人を選んでそれを見習い、善くない人にはその善くないことを[我が身について]直すからだ。」

″数人と同じく道を行く時において、必ずこの中に我の師とすべき者あり。その人の威儀言葉行事等、すべて善き者を択びいてこれに従い、自己をこれにひとしくし、その善からざる者は、自己にもかかることあらんかと省みてこれを改むれば、みな我が
師となし、膳に進むの資となすことを得べし。″

先進十一17
季氏は[魯の家老の分際で、周王室の大功労者であった魯の君のご祖先]周公よりも富んでいた。それなのに、求(きゅう)は季氏のために税を取り立ててさらにそれを増やした。先生は言われた、「私達の仲間ではないね。君たち太鼓を鳴らして攻め立てたら善かろう」

“しかるに冉求、李氏の家宰となり、さらに賦税を重くして民を苦しめ、以ってその主の財産を増益す。十哲の一人たる政治家としては、余り感心できぬ処置なり。主に事うる道を誤り、かつ師の訓告にそむくものである。ゆえに求はもはや吾が弟子ではないと明言せられ、門人をして「その非を攻むべし」と仰せられしなり。かく孔子は冉求を破門して、友達よりその非を責めしめんとしたれども、これ固より冉求を憎みたるにはあらず。師は厳にして友は親しむの義に則り、「己はこれを義絶すれども、汝ら友達はよろしく忠告してその誤りを正すがよい」と仰せられた。深き愛情のこもれる訓言なりと解釈するが相当である。”

博学篤志切問近思子張十九6
子夏が言った、「広く学んで志望を固くし、迫った質問をして身近に考えるなら、仁の徳はそこにおのずから生まれるものだ。」

″広く学んで厚くこれを心に識し、己が学びて未だ悟らざることを切実に人に質問して、近くこれを身に行わんことを思う。
蓋し学と問とは、これ知。志と思とはこれ行いなり。知行並びに進めば仁徳自ずからその中にあり。″

子罕九25
先生が言われた、「忠と信とを第一にして、自分より劣った者を友人とするな。過ちがあれば、ぐずぐずせずに改めよ」

“この章句を文字通りに解釈し去れば、侯ごとき百事に優れた人は、誰もみな己に如かざるを以って、友とすべき人がないかもしれない。しかしこの章句は、そういう意味合いでなく、悦んで尋ねなかったり、従って改めなかったりする人が多い世であるから、よく友を択んで交わるようにせよという意味である。世の中にすべての点において万人に優れたという人はないのであるから、善に移り過ちを改むるにはばからぬ善良の人を友とせよというのである。
虞舜の大徳といえども誤りはあった。ただこれを改め善に移ればよいのである。”

三省学而一4
曾子がいわれた、「私は毎日何度も我が身について反省する。人の為に考えてあげて真心からできなかったのではないか。友達と交際して誠実でなかったのではないか。よくおさらいもしないことを[受け売りで]人に教えたのではないかと。」

“人のために忠実に謀り、友人に信義をつくし、孔夫子の仁道を行うに怠らなかったならば、人は他より恨まるることなく、農工商の実業家は必ずその家業の繁昌を見るべし。政治家は必ず人民に謳歌せらるべし。”

四絶子罕九4
先生は四つのことを絶たれた。勝手な心を持たず、無理押しをせず、執着をせず、我を張らない。

“人は元来有情のものなれば、意・必・固・我を絶つというても、全然これを絶滅して生存し得らるるものでない。孔子の教えもまた全然これをなくするということではなくして、この章はみな私字を補って見るを適当の解となす。
すなわちこの四者が私に根拠して不道理に働く場合を絶つべしというのである。
人には喜・怒・哀・楽・愛・悪・慾の七情がある。この七情の発動がすべて義に適うようにしなければならぬ。哀しいとことがあっても悲しい顔を見せず、嬉しいことがあっても喜んだ顔を見せない人があるが、これは虚偽である。
聖人は喜ばしい時に悦び、悲しい時に悲しんで、七情の発動を理に適うようにする。”

積小為大

積小為大論語ではなく二宮金次郎の言葉ですが、修身のためには重要な考え方だと思います。私の自己鍛錬論による指導論でも使わせていただいています。

指導論

修身をもとに指導していきますが、教えることの前提として知っていることは知っていることとし、知らないことは知らないことが、知るということです。たいして知らないことを物知り顔をして知っているかのようにふるまうのは愚かな人間です。
先ずは孝行し、悌順し、誠実にし、広く愛し、そして余裕があれば書物で学びましょう。
また、知らない人に難しいことを教えようとしても理解に至らなければ益にはならないので、相手を観て教えたほうが良いでしょう。
普通の人はちょっと知っていることをさも熟知しているかのように話し、さらに悪い奴は悪用する。孔子は誠実な人に教えなかったことはなかった。
無理には教えず、詰め込んで教えず、求めていないと教えないほうが良いでしょう。学ぶことに対しては誠実に勉め、忘れることを恐れましょう。

学而一6
先生がいわれた、「若者よ。家庭では孝行、外では悌順、慎んで誠実にしたうえ、だれでも広く愛して仁の人に親しめ。そのようにしてなお余裕があれば、そこで書物を学ぶことだ」

“実行を先にして、文芸を学ぶことを後にせよという教えなり。孔子の教育主義はすべて空理空論に流れず、躬行実践を重んずると同時に、その実行の動機となる精神においても、また重きを置けるは勿論なり。次にはこれらを飾る文事も、余暇があれば学べと仰せれしなり。”

爲政二17
先生がいわれた、「由よ、お前に知るということを教えようか。知ったことは知ったこととし、知らないことは知らないこととする、それが知るということだ」

“一知半解の人は、己の知らざることをも  知りたる振りをするが多し。これ恥ずかしきことにあらずや。何事によろず真に熟知のことはこれを知れりとなし、熟知せざることはこれを知らずと明言し、しかるのち始めて世人より知者なり識者なりとして信用せらるべし。知らぬことを物識り顔して強いて弁明する愚拙なるはなし。”

雍也六21
先生が言われた、「中以上の人には上のことを話してもよいが、中以下の人には上のことを話せない。[人を教えるには相手の能力によらねばならない]」

“「中人以下には以って上に語るべからず」は禁止的な教訓をなされたのではなく、ただ教育のある者に聞かせるようなことを、無教育の者に説き聞かせても、労して功のなきものゆえに、何事も人を見て法を説くようにしたがよいと仰せられた意味であろう。”

述而七2
先生が言われた、「黙っていて覚えておき、学んで飽きることなく、人に教えて怠らない。[それぐらいは]私にとってなんでもない」

“天命のある所、奉じて以って職となす。あえて自ら私せず。ゆえに曰く『我に何かあらんや』と。学問に精通して物知りになっても、これを胸中に蔵して、軽々しく発露せぬというおくゆかしき人は容易に見当たらず。尋常の人は一を知れば、これを十にして使いたがるものである。
これを一知半解の人という。一知半解の知識を振りまわして高言放論するに止まらば、その痴気愛すべしとして笑ってすまされるが、あらういはその一知半解の知識を悪用して、自己の非違を隠そうとする者もある。”

述而七7
先生が言われた、「乾し肉一束を持ってきた者から上は、[どんな人でも]私は教えなかったということはない。」

“孔子の人における、その道を学んで善に入るを欲せざるはなし。しかれども教えを受けんと欲する心なき者はこれを教うる能わず。縁なき衆生は度すべからざればなり。至薄の束脩にても、これを献げてその誠を表する者は、吾はこれまでもその人を教えざりしことなしとなり。”

述而七8
先生が言われた、「[分かりそうで分からず]わくわくしているのでなければ、指導しない。[言えそうで言えず]口をもぐもぐさせているのでなければ、はっきり教えない。一つの隅を取り上げて示すとあとの三つの隅で答えるというほどでないと、繰り返すことをしない。」

“聖人の人を教うるは、注入してこれに説き示すにあらず。弟子自ら研究して、通ずることを求むれども能わざる時において、始めてその通ぜざる所を啓きてこれを通ぜしむ。学問を志すに篤かざる者は、これに詰込み主義で教えてもその効なければなり。注入主義になってしまえば、人は自分で発明するということは全くなくなってしまうものである。いやしくも師について教を受けんとする者は、一隅を挙げて貰えば、残る三隅は自分で反す心掛けがなければならぬ。”

述而七24
先生は四つのことを教えられた。読書と実践と誠実と信義である。

“そもそも孔子の教育主義は空理空論を避け、実行を重んずると同時に、実行の根本たる精神に重きをおく。「文」は道芸なり。博く文を学ぶをいうなり。「行」は行実なり。「忠」は人のために謀って己が心力を尽くすなり。「信」は言行あい副うなり。自己を主張する西洋の文化を誤解し、他人がいかに迷惑しても、自分さえ好ければそれでよいという気に成ってしまったからだ。
しかれども自分さえ好ければよいという気では、結局自分も立って往けなくなるものである。利己一点張りの人間を助けて繁栄さしてくれそうなはずはないのである。”

泰伯八17
先生が言われた、「学問には追付けないかのように[勉める]。それでもなお忘れないかと恐れる。」

“およそ学問を修業してその蘊奥を極めんとするには、寸時も怠ってはならぬ。常に心掛けて勉強をしても、これで十分という所には至らぬから、いつも及ばざるがごとき心情を以って、励まねばならぬことを教えられたのが本章である。
今日学者の中には真面目に孜々として物理を研究し、古人の説を極めている篤志家なきにあらずといえども、多くは一知半解の学問を振り廻す広告的学者で、何事も誇張し、古人の説などについても、その蘊奥を極めずして、得々としてこれを蝶々するいわゆる半可通の多いのも事実である。”

言行一致自分がしてほしくないことは顔淵十二2
仲弓が仁のことをお訊ねした。先生は言われた、「家の外で[人に会うときに]は大切な客に会うかのようにし、人民を使うときには大切な祭りを行うかのようにし、自分の望まないことは人に仕向けないようにし、国にいても怨まれることがなく、家にいても怨まれることがない。」仲弓は言った、「雍は愚かではございますが、このお言葉を実行させて頂きましょう」

君子は人の美を成す顔淵十二16
先生が言われた、「君子は他人の美点を[現し進めて]成し遂げさせ、他人の悪い点は成り立たぬようにするが、小人はその反対だ。」

“君子は善を好みて私なし。ゆえに人の善あるを見れば、己にこれあるがごとく、これを誘いたすけ、さらに奨励し勧説して、必cずこれを玉成す。また人の悪あるは、これを沮抑し諫止して、大悪に至らざらしむ。小人は全くこれに反し、人の善あるは、  これを忌み、これをそしりて、成就せざらしむ。
人の悪はこれを容助し、これを迎合して、大悪に至らしむ。これ君子小人の好む所あい反するを以って、その結果のあい反するまたそれかくのごときなり。今日政党政治において、敵党のなす所は、たとえ善政にても何とか文句をつけてこれを沮止し、悪政はかえって陰に陽に迎合してこれを成さしめ、以って他日攻撃の材料となす。実に危険皮肉のこと多し。”

自己鍛錬論による指導論

これもATOOSの提供技術で紹介しております。この中に短伝という項目が出てきますが、意味としては指導の言動は短く伝えるということです。孔子の言動もすべて短いものです。しかも的確で、相手に深く考えさせる示唆も含められています。

以上、渋沢栄一氏の論語講義の解釈には「″ ″」で括っています。