論語マネジメント論による仕事の改善

過ちに対する基本的な態度

仕事の改善は過ちにどう対処するかです。過ちとは問題です。問題は目標と現状のギャップです。
論語の中には過ちに対する問答が数多くあります。孔子にとっては過ちはそれだけ道に向かうための妨げなので注意していたのでしょう。
孔子にとって過ちはいかに素直に迅速に対処するかを重要視しています。譬え過ちがあってもそれを素直に認め直ぐに改めれば過ちではありません。本当の過ちとは最初の誤りを素直に認めずぐずぐずと言い訳して過ちではないということが過ちなのです。
そもそも過ちは周囲から見て明らかにわかるものが多いのです。ですから、その後が大切でそれをスパッと改めれば周りはそれを見てさすがだねと褒めたりするものです。
蛇足ですが孔子は五十歳を過ぎてから易を学んだとしても大きな過ちをしないだろうと言っています。易とは何でしょうか。易とは伏羲が書いた易占いの本であり、哲学書であり、処世術であり、儒教の経典でもあります。世の中はすべて変化し、その変化の兆しがまとめられています。孔子は変化に対する兆しを理解すれば大きな過ちはしない考えます。渋沢栄一氏はすべての者は変化していくのだからあまり今だけのことに悲観せずに明るくいきなさいと言います。

述而七16
先生が言われた、「私がもう数年経って、五十になってから易を学んだとしても、やはり大きな過ちなしにゆけるだろう」

“易は吉凶消長の理と衰退存亡の道とを明らかにする学問ゆえ、易を十分に会得してしまえば、人に無理することが一切なくなり、たとえばいかにトントン拍子で利益幸福が転げ込んできても、それを永久に続くものだと思わず、盛んなるものは必ず衰うる時あるべきを思う、勝って甲の緒を締めるものだと説くのが、これすなわち易の道だ。これに反しいかに悲境に淪落するも、何れの日に再び花咲く春の時節到来すべきを思い、あえて悲観せず元気を出して働けと教えるのも、また易の道である。”

子罕九25
先生が言われた、「忠と信とを第一にして、自分より劣った者を友人とするな。過ちがあれば、ぐずぐずせずに改めよ」

子張第十九21
子貢がいった、「君子の過ちというものは日食や月食のようなものだ。過ちをすると[はっきりしているので]誰でもが皆それを見るし、改めると誰もが皆それを仰ぐ。」

“君子は位を以ていう。その過つや日蝕月蝕のごとし。人民みなその過ちを監視す。その改むるや、光明もとのごとし。人民みな喜んでその徳を仰ぐ。小人は過ちて改めざるのみならず、ついに文飾してその非を是となす。”

本当の過ちとは

人間は過ちを犯すものです。過ちを改めないことが本当の過ちです。しかし、その後の態度でその人の本質が出てきます。小人はすぐ誤魔化そうとします。過ちを犯したとしても二度と起こさねば良いのです。

雍也六3
哀公が「お弟子の中で誰が学問好きですか」とお訊ねになった。孔子は答えられた。「顔回という者がおりまして学問好きでした。怒りにまかせての八つ当たりはせず、過ちを繰り返しませんでした。不幸にして短い寿命で死んでしまって、今ではもうおりません。学問好きという者は[ほかには]聞いたことがありません。」

衛靈公十五30
先生が言われた、「過ちを改めない、これを[本当の]過ちというのだ。」

“人誰か過ちなからん。過ちを知ってよく改め日食の明に反り、人みなこれを仰ぐがごとくすべし。かくすればこれ己に過ちにあらざるなり。過ちをかざりて改めざるを眞の過ちといふ。”

子張十九8
子夏が言った、「小人が過ちをすると、きっと作り飾[って、誤魔化そうとす]る。」

“君子はこの心公明にして、もし過ちあればこれを改むるに、やぶさかならず。これに反して小人は私心多し。あるいは外聞のため、あるいは利害のために、我が過ちを知りながら、糊塗文飾して、自らあざむき人を欺く。”

過ちにも種類がある

人によって過ちの仕方が違います。仁者の過ちは人への思いやりが過ちを起こし、不仁者は軽薄ゆえに過ちを起こします。また、上司に接する時も隠したり、がさつだったり、目を見ないで話すのは過ちと考えます。

里仁四7
先生がいわれた、「人の過ちというものは、それぞれの人物の種類に応じておかす。過ちの内容を観れば仁かどうかが分かる」

“それ人のこの世に処する、過失をなさずにすめば、この上もなきことなれども、絶対に過失をせぬということは、聖賢といえどもよくせざる所ならん。されば人に過失ありとも直ちに棄つべからず。しかしてもその過失を生ずる場合にも、とかくその人の性癖がその過失の上に顕われてでてくるものである。ゆえにその過失が仁に流るるより来たったものなる時は、その人は仁厚の性行なるを知り得べく。もしの過失が忍に流るるより来たったものなる時は、その人は残酷の性行なるを知り得る。すなわち仁者は常に人に親切なるよりして過失を致し、不仁者は常に軽薄のために過失を致すものである。その過失の由来する所を察すれば、その人の仁者なるか不仁者なるかを判断することを得べし。”

季子十六6
孔子が言われた、「君子のお側にいて、三種の過ちがある。まだ言うべきでないのに言うのはがさつといい、言うべきなのに言わないのは隠すといい、[君子の]顔つきも見ないで話すのを盲という。」

“言の三過を愼む所以なり。躁(そう)は時に先だち、軽忽にして無礼、隠は時に遅れ、情を匿くして無礼、瞽(こ)は時に昏く、君子して應接に厭はしむ。みな時中の道にあらず。”

もし自分に過ちがなかったとしても

譬え過ちがなくともそれを謙遜して日々努力しておりますがまだまだですという心を持たねばなりません。例え自分の使者が問われたとしても。

憲問十四
?伯玉が孔子の所へ使いをよこした。孔子は使いの者を席に着かせてから、訊ねられた、「あの方はどうしておられますか。」答えて、「あの方は自分の過ちの少ないようにとしておりますが、未だ出来ないでいます。」使いの者が退出すると、先生は「[立派な]使いだね、[立派な]使いだね。」と言われた。

“使者いわく「主人は常に過失を寡くせんと心掛けをるも、なほ未だにその域に達すること能はざるなり」と。使者退き出でたるのち、孔子これを褒めて曰く「この人こそ眞の使者なれ」と。その言卑謙にして、主人の賢なることますます彰はる。”

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注)渋沢栄一氏の論語講義の解説は「″ ”」で括っている個所です。